【一会】『ベルセルク 39』……桜舞う里の憩い、彼女の深層への旅
2018/07/21
多くの人が、その成り行きを固唾を飲んで見守るダークファンタジー、三浦健太郎氏『ベルセルク』の、39巻が刊行されたのは今夏の始めの6月末。未完の大作になるのでは、と云われることも多い本作ですが、前巻からは1年余りというハイペースの刊行となりました。相変わらず遅きに失し過ぎな感もありますが、気にせず(いや、ちょっとは気にします^^;)概要と感想を書いていきたいと思います。
リッケルトとグリフィスを追った前巻と対照的に、今巻は全編ガッツたちの旅路を描いています。キャスカの安全を確保するため、辿り着いた妖精たちの里エルフヘルム。そこで彼らを待っていたのは、風変わりな歓待と、夢の世界へのもう1つの旅立ちでした。
順を追って語りましょう。前巻でエルフヘルムの住人らしき人々が使役するスケアクロウ(案山子)たちとの戦いに入ったガッツたちでしたが、今巻冒頭で更にエスカレート。おばけカボチャが出てくるまでは、まだハロウィンぽい絵面でしたが、夥しい生贄を用いたウィッカーマンまで登場しては、いつもの使徒や悪霊との戦いとあまり変わらない雰囲気になります。
しかし、誤解が解けてみれば戦う理由もありません。攻撃していたのは、エルフヘルムのある、ここスケリグ島に住まうというモルダたち若い魔術師。やがて現れた大導師ゲドフリンに案内されて、一行は彼らの里へと向かいます。
大導師というだけあって、ゲドフリンは何もかも承知の様子。ガッツたちが来るのも妖精王にあった託宣を通じて知っていたようですし、グリフィスが世界各地の“霊樹の森”を襲って引き起こした大異変も“大幽界嘨”と呼んで把握しているようです。
案内されたのは、妖精王“花吹雪く王”の妖精郷ことエルフヘルムの一角(と思われる)魔術師の里。常に桜の花が舞い散り、魔術師たちがそれぞれに修行に励む豊かな集落でした。シールケが暮らしていた霊樹の森と同様、この里の様子もまた、殺伐とした本作には珍しい安らいだ土地ですが、ガッツはそれに心安まる間もありません。キャスカが無事に過ごせるかもしれない、その閉ざされた心が元に戻るかもしれないと聞いて、はるばる来たのだから、当然と云えば当然ですね。
とはいえ、ここで急いても仕方ないと説得され、ゲドフリン達の館で、一行は揃ってお茶を頂くことと相成ります。イシドロやキャスカたちは魔術師のおやつに心奪われているようですが、大人達の話題はといえば、グリフィスによる大幽界嘨のこと。ゲドフリンの説明は、なかなか高次元なお話ですが、突如として現れた謎の大樹――世界樹の力を抑えていたのが、シールケとその師フローラが住んでいたような霊樹の森で、それらが失われたことで、世界の“現世”と“幽界”のバランスが崩れた…と要約してよさそうです。
そうまでして世界を魔物が跋扈するように変容させ、ファルコニアを造りあげたグリフィスの狙いとはどこにあるのか。ゲドフリンの問いに、「国を手に入れるのは通過点」だとガッツは答えます。が、「高みを目指し/超えて何処までも飛び続ける」というグリフィスの次の狙いはどこなのか、判然としているわけではなさそうです。
お茶の後、いよいよ一行は“花吹雪く王”に謁見するため、里の中心である大きな桜の霊樹に向かいます。通り道となる森の中は、そう思えないくらい明るさと軽さに満ちています。ゲドフリンの説明では“重さ”の元素霊(エレメンタル)「バリュテース」が少ないからとか。妖精郷の名の通り、すごい数の妖精たちが歓迎ともちょっかいともつかないモーションをかけてきて、来訪者たちを翻弄します。
桜の霊樹の中、登場した妖精王“花吹雪く王”には少し驚かされましたが、いたずら好きな妖精たちを統べるだけある、と云うべきかもしれません。「妖精王」の字面から、何となくオベロン(シェイクスピア『夏の夜の夢』)っぽい存在を想像していましたが、むしろこれはティターニア(同じく『夏の夜の夢』)でしょうかね。結託して悪事を企んでいたパックとマニフィコに対する毅然たる処分(?)も、堂に入っています。
かくして“花吹雪く王”と言葉を交わしたガッツ。王の云うには、キャスカの心を取り戻すことは可能、とのこと。それには、“夢の回廊”を用いる必要があるようです。
そのアシストとして妖精王が名指ししたのは、魔術師であるシールケと、いまやその弟子として力をつけつつあるファルネーゼでした。対してガッツには、キャスカが怯えを抱いているとして参加を断ります。
ここでガッツがシールケたちに「任せた」と云えたことは、大きな変化だと思います。何でも(特にキャスカに関することは)自分でやろうとして、それだけ深く傷ついてきた彼が、もっとも大切な仕事を他人に任せられるようになりました。たまに連載コラムを投稿している書評サイト『シミルボン』でも少し触れた(#3『ベルセルク』と、共鳴する“100人斬り”根性)のですが、自分1人で何としても頑張る時と、大切なことでも人に任せる時があっていいのだと思います。ここまでの旅で重ねた辛苦の意味とは、この辺りにあるのではないでしょうか。
さて、儀式に参加しない面々は里に一旦もどり、キャスカ、シールケ、ファルネーゼの3人は、妖精王に導かれて儀式の場に進みます。
「回廊」といっても、それは象徴的なネーミングで、そういう儀式と云った方がよさそうです。妖精王が云うには、術者が対象の夢を通じて心の奥深く入り、散りばめられた事象を読み解いて答えを探し出す儀式とのこと。儀式の場で、3人はそれぞれ眠りに落ちていきます。シールケとファルネーゼは、自分の夢から抜け出て、キャスカの夢へと入っていくのですが、彼女たちの夢も、それぞれ興味深いです。特にファルネーゼの夢は、“洗濯”という身近な仕事に自分の贖罪とか自立といったものが投影されているように思えて、もう少し続きが見たかった気もします。
ところで夢の世界を舞台にしたエピソードといえば、色々な物語に幾つも類例が見つけられますが、自分にとって印象深いものを挙げますと初代『3×3EYES』(100夜100漫第100夜)のパイがみた、はるか昔の三只眼たちの夢の世界や、往年のRPG『FINAL FANTASY VI』の侍カイエン・ガラモンドの夢のダンジョンなどでしょうか。
現実とはかけ離れた世界に見えて、主観的な視点からすれば確かに因果がある、という夢の中の描写には、なかなか引き込まれるものがあります。多くは人物のトラウマ的な要素と関連して描かれているように思いますし、フロイトの『夢判断』などへの興味も掻き立てられます。
さて、自分の夢を抜け出てキャスカの夢に入った2人。表面的には無邪気な様子に見えたキャスカの夢ですが、その深層には黒い太陽が照らす荒涼たる世界が広がっていました。そんな夢の世界のガッツとキャスカは、それぞれ現実とはかけ離れた姿をしています。しかし、その傷痕と力強さと直向きさは確かにガッツで、その破壊された様と空虚さは確かにキャスカです。
一方。時間の概念などあって無いような夢の世界で頑張るシールケたちをよそに、ガッツ達が残された常春のエルヘルムでは、魔術師や妖精たちによる歓迎の宴が催されていたり。
それぞれに楽しい一時を過ごしているようですが、ガッツとセルピコ、船長のロデリックという男3人の花見酒の一幕に、やはり心惹かれました。長い旅路の末にシールケ達に「任せた」と云えたガッツと、ファルネーゼを自立させたガッツとキャスカを認めたセルピコ。以前とは少し変わった2人の男を船長は快く見守っているようです。
キャスカの心が戻ったとして、彼女の希望はガッツの希望と同じとは限らない、とは髑髏の騎士にも忠告されたことではあります。しかし、今はキャスカが回復することだけを願うべきでしょう。
キャスカの夢の世界でのシールケ達の仕事は、夢の世界のガッツを手助けしつつ、妖精王が示した方へと旅を進める、ということのよう。ガッツ達を襲ってくる“敵”を撃退し、あるいは散在するキャスカの思い出の欠片を集めながら、彼方にある“針山”を目指します。
思い出の欠片は、シールケたちが出会う前のガッツの姿を写し出し、それは彼女たちに微妙な波紋を拡げます。が、今はともかく、ガッツから任されたこと――キャスカを救うことに専念しなければなりません。
夢の旅路は終わりに近づき、眼前には“針山”が――といったところで、今巻は幕。夢の中のキャスカが「会いたい人」は誰なのか(多分“彼”なのでしょうけど)、“針の山”ではどんな出来事が待つのか、気になりつつも、次巻を待ちたいと思います。
気になる40巻の刊行日は、この文章を書いている現在も未定の模様。前巻から今巻がほぼ1年だったので期待してしまいますが、少し先になるかもしれません。アナウンスがあるまで、既刊を読み直しつつ待ちましょう。