第207夜 北の学府の、優雅な騒動は人獣共通…『動物のお医者さん』
2018/07/24
「うちの大学を受けるのか/その顔は~~/理系!/ワタシにはキミの未来が見える/キミは将来~~/獣医になる!!/このカシオミニを賭けてもいい」「……」「キミが賭けるのはこの仔犬だ」
『動物のお医者さん』佐々木倫子 作、白泉社『花とゆめ』掲載(1987年12月~1993年11月)
H大学獣医学部の敷地を、高校から帰る近道として利用していた西根公輝(にしね・まさき、通称ハムテルまたはキミテル)と友人の二階堂昭夫(にかいどう・あきお)。ある日2人は、そこで般若のような顔をしたシベリアンハスキーの仔犬と、それを追って現れたアフリカ民族っぽい格好をした年配の男――H大獣医学部付属病院の教授・漆原信(うるしはら・まこと)と出会う。
漆原はハムテルが獣医になると予言し、仔犬を押し付ける。しかし、西根家には既に、なぜか関西弁で近所の女ボスとして君臨する三毛猫のミケ、西根家最強の生物と呼び声の高い白色レグホンのヒヨちゃんといった動物たちが住んでいた。そこに、顔は怖いが温厚なその仔犬チョビ、更にはスナネズミたちまで引き取ることになり、ハムテルは自分で治療できた方が楽だし安上りだと判断し、H大学獣医学部に入学することに。
かくして、ネズミ恐怖症なのになぜか獣医学部に進んでしまった二階堂、公衆衛生学講座のヘンな院生・菱沼聖子(ひしぬま・せいこ)らと共に、ハムテルは獣医学生ライフを送る。実験や実習、学内外の動物に関する行事などに加え、漆原教授の傍若無人な奇行や、家の動物たちや祖母タカによる騒動に巻き込まれる日々は、騒々しくもおっとりと優雅に過ぎていく。
…になるまでの色々
数年前、真冬の北海道を訪れた。ライトノベル作家の時雨沢恵一氏が自著の中で紹介していた、新宿から夜行列車(「ムーンライトえちご」という列車だったが、2014年でひとまず運行されなくなったようだ)で新潟に行き、そこからフェリーで小樽に入るというなかなかハードなルートを選択したのだが、それだけに印象的な旅だった。
札幌も訪れ、この漫画の主要な舞台である北海道大学の構内も見物してきた。もちろんアフリカンなメイクの教授などは見かけなかったのだが、H大の雰囲気は味わえたのではないかと思う。
自分がこの漫画を初めて知ったのは小学生の頃だったが、味読できたのは大人になってからのことだ。その頃には、この漫画の巻き起こしたシベリアンハスキー人気や北大獣医学部の志望者急増といった出来事は、一応は過去のものになっていた。
一読して驚いたのは、主人公ハムテルは物語の開始時から最後まで、正式には「動物のお医者さん」ではないことである。自分は何となく、毎回、重かったり珍しかったりする病状の患畜が登場し、素行に問題はあるものの実力のある教授に意見を聞きつつ対応していく若き獣医たちの物語を思い浮かべながら読み進めていたのだが、その予想は見事に裏切られたことになる。
実習や試験や臨床など、それなりに専門的な内容が説明されるシーンもしばしば存在するが、それらが中心ではないし、少女漫画らしいロマンスの要素も殆どない。チョビを始めとする描き文字で話す動物たちは可愛いが、それだけをクローズアップした漫画でもない。
それではこの漫画は何なのかと問われれば、「動物のお医者さん(…になるまでの色々)」という表現が、最も合致するように思う。メインとなるのは、ハムテルたちが所属する獣医学部の人間や動物たちが織り成す、1話完結タイプのエピソード群なのだ。
その日々の永続性
同時期に発表された大雪師走『ハムスターの研究レポート』と共に動物観察漫画の先駆と見ることができる一方で、『もやしもん』(第163夜)や『銀の匙 Silver Spoon』(随意散漫:11巻、12巻、13巻)といった農業・畜産系の学生ライフを描く漫画のはしりと言えなくもないだろう。ただ決定的に違うのは、上述の漫画たちが有する“業界への問題意識”は持ち合わせていないことだと思う。
これはしかし、自分は難点とは思わない。それは、単純にやや昔の作品だから、ということではない。
問題意識がないということは、裏を返せば現状を肯定しているということである。その肯定感が漫画にもたらす弛緩した空気が、何とも心地いい。
北の最高学府と呼ばれる大学がモデルであるし、恐らく登場する学生・教師ともに知的には高レベルだろう。画的にも、ハムテル達や菱沼の造形にせよファッションにせよ、少女漫画であることを思い出すのに十分な眉目秀麗さである。
そんな知的で美形な人物たちが織り成す物語にもかかわらず、画面にはどこかのんびりした雰囲気を湛えており、展開されるコメディには温かみが漂う。今で云う“残念な美人”な菱沼さんの、研究者として有能ながらぼーっとした様子を踏まえれば、この漫画全体が“菱沼的”と云っていいのかもしれない。
加えて、かなり話数が進んでも「ハムテルたちが○○の頃」といった語りで始まる断片的な過去エピソードが挿まれ、行きつ戻りつする時間軸が物語を一点に収束させようとしない点にも注目したい。ハムテルたちは進級し国家試験も受けるし、オーバードクターとなった菱沼は何とか就職する(大学のすぐ近くなので登場頻度は学生の頃と変わらないが)が、最終話がハムテルたちの大学卒業ではないところも、また巧妙である。
こうした、ゆるりとした空気と曖昧な時間感覚は、H大獣医学部の日々が永続するような感覚を読む者に与えるに違いない。それは、作中の学生たちと同様、読者にとってもH大学が“第二の故郷”たり得ていることの証左と云えるのではないだろうか。湛えたその包容力から、今後も長く読み継がれる漫画だろう。
*書誌情報*
☆通常版…B6判(17.4 x 11.4cm)、全12巻。電子書籍化済み。
☆文庫版…文庫判(15 x 10.6cm)、全8巻。巻ごとに解説(綾辻行人、群ようこ等)あり。各話扉絵なし。
☆愛蔵版…B6判(18.2 x 13cm)、全6巻。描き下ろし表紙、連載時カラーイラスト・扉絵再現。