第105夜 開かれた瞳に映る世界は、本質か、かりそめか…『魔女』
2018/07/20
「あなたにも きっとみえるはずよ。/わたし達は皆……/“彼女たち”の眷族なのだから。/あなた自身のからだで/世界を確かめていきなさい。」
『魔女』五十嵐大介 作、小学館『月刊IKKI』掲載(2003年4月~2004年11月)
彼女たちはどこにでもいる。文明と歴史の堆積に、気だるい森の只中に、辺境の村の外れに、経済大国となったこの国に。
その力は、世界の秘密に連なっている。その力は、情け容赦のない、原初の荒ぶる光。その力は、天に至る科学をすら翻弄する蠱惑の虚(うろ)。その力は、あらゆるものを理解するまったき調和。
言葉という倫理は、なんの軛(くびき)にもならない。善悪を超えて、彼女たちは生きる。時には自らの復讐のために、時には救うべき世界のために。
彼女たちは、どこにもいない。現代という時代に葬られるという意味でなく、秘密を秘密として、ひっそりと息づいているために。
トルコ、熱帯、北欧、日本。それぞれの時代、それぞれの地域の魔女たちを、幻想的に描いた連作オムニバス。
世界の本当の姿
インドネシアのバリ島で、聖獣バロンと魔女ランダによる舞踊を観たことがある。バリ島の宗教はインドネシアでも特殊なバリ・ヒンドゥーと呼ばれるもので、善なるバロンと悪なるランダの果てることのない争いによって世界が運行していると考えるのだ、と現地ガイドに聞いた。
同心円状の目をしたランダは人間に災いをもたらす恐ろしい存在だが、人の優しさに触れて癒しの魔術を使うこともあるという。本作に登場する魔女の、善も悪も内包するような在り方は、このランダのようなものかもしれない。
現在の日本で魔女といえば、『魔女の宅急便』の主人公キキやその母親のような、黒衣を身につけ箒に乗り、使い魔を従えて魔法の薬を作るイメージが一般的だと思う。が、そのイメージはヨーロッパでの一例に過ぎないだろう。本作では中央アジアだったり熱帯雨林の奥地だったりという、日本においてはオーソドックスではない魔女たちが描かれる。自然界の表象である精霊と交感するところから、『シャーマンキング』(第30夜)のシャーマンに近い存在と云えるかもしれない。
そんな彼女たちによって可視化される、それぞれの文化的素地に基づいた神秘の表現が、本作の第一の魅力だと思う(この点、作者の近作『海獣の子供』にも通じる部分がある)。特に熱帯雨林の魔女が垣間見せてくれる森の精霊達の姿は、神々しく同時に禍々しい。三浦健太郎『ベルセルク』で描かれる使徒をも思わせる存在たちが、一見乱雑に眼に映りながらも高い技量を思わせる作画で描かれ、魔女だけが識(し)る世界の本当の姿を目の当たりにしている錯覚を抱かせてくれる。
乱れた髪の美しさ
先に云ったように、魔女たちは正義ではないし悪でもない。というよりも、善悪という区分自体が西欧的(というか一神教的)で、そんなに簡単に世の中は区分けができないことを考えると、当たり前と云えば当たり前なことではある。
ただ確かなのは、彼女たちは美しいということだ。それも繊細さとか優美という言葉とは正反対の美しさだ。
彼女たちに人間的な感情がないわけではない。家族を愛し、男を愛し、それらを失えば嘆き怒る。そういう意味では極めて普通の女性なのだ。ただ、自らの嘆きと怒りを、逡巡することなく復讐や慈しみに直結させられるところが、やはり魔女だ。
秘術を駆使して現代人に超自然の鉄槌を下したり、反対に己を賭して護るべきものを護る彼女達の姿は、必ずしも(いや、ほとんどの場合)綺麗とは云い難い。しかし、乱れた髪が張り付いた彼女たちの瞳は、顔は、それでも確かに美しいのだ。そんな境地を静止した画に留めるのは至難の業ではなかったろうか。
ともあれ、各地の文化と女性を巧みに映した神秘の絵巻である。オムニバスの性質上あやふやではあるが、厳密に云えば未完結のようなので、いつかまた違った地域での魔女に逢えることを楽しみに続きを待つことにしよう。
*書誌情報*
☆通常版のみ…B6判(18.2 x 12.8cm)、現在2巻(続刊未定)。電子書籍化済み。
Comment
五十嵐大介きましたか!いいですねぇ。長編よりも短編の方が好きです。海獣とかは情報が多すぎて整理できない。
五十嵐さんは、何より絵ですよねぇ。絵柄も独特ですし、ぱっと見で面白い一枚絵なんかも多いです。とにかく情報が多い。短編でも十分物語があります。
最近は絵本などの活動が主となっているようですが、漫画も読みたいもんです。いや、媒体にとらわれないのも五十嵐さんらしいんですかね笑。
さくまさん
五十嵐さんは絵本も出されたんですね。
確かにあの絵の感じは絵本が相応しい気もします。ざくっとしていながら精緻とは、普通は相反する要素ですよね。
『海獣の子供』、完結したら何とかまとめてみたいと思っております。。