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漫画の感想やレビュー、随想などをつづる夜

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第153夜 全ては、街の中で過ぎていく…『今日も渋谷のはじっこで』

      2018/07/22

「わたしはちょっと東京に染まりすぎたのかな/戻れないんだよ/わたしはもう/きっと/地元の習慣は合わない/……/いいね/きみにはまだ/帰れるところがある/夏休みが終われば帰れるんでしょ/わたしには/終わりなんてないけど」


今日も渋谷のはじっこで (Feelコミックス)

今日も渋谷のはじっこで平尾アウリ 作、祥伝社『FEEL YOUNG』掲載(2013年2月~同9月)

 「若者の街」、渋谷。けれどもそれは、輝きばかり満ちる街という意味とは違う。
 23歳の奈央(なお)と沙織(さおり)といつき、18歳の逢(あい)と22歳の陸(りく)、22歳だった穂乃と17歳だった恭平、そして、16歳の「りお」。
 制服ファッションで十代を偽り春を売る。友人も知らない自分の趣味を、“ストーカー”と共有する。妹の彼氏の本性を知り、にわかに共犯関係が成立する。看護師と役者という夢破れて嘘をつく。自分に合わない仕事に苛立ち周囲が見えなくなる。あてども無い「未来」に、心が分からなくなる。
 それら全ては、街の片隅のありふれた出来事。時は過ぎ、ただ若者たちは生きていく。

街を描く静けさ
 東京都下に生まれた自分の十代は、渋谷という街にさして親しまずに終わった。東京と云っても、実家の最寄り駅から渋谷まで、電車の乗り換えやら何やらで1時間弱はかかるのだから無理はないと云わせて欲しい。住んでいたのもそれなりに栄えていたところだったので、大抵の用事は地元で事足りたし、都会を感じたければ吉祥寺や新宿の方が身近だったのだ。
 それでも、高校1年の夏に、渋谷で暇そうにしている女子高生たちと交流する機会があった。ナンパではない。通っていた高校の文化祭で、あろうことか我がクラスは「コギャル」をテーマにした展示企画をやることになり、その取材として渋谷の女子高生にアンケートを取る事になったのだ。この時の詳細は省くが、暑さのせいか「単に渋谷の女子高生と云っても、色々な人がいるんだな」という、まことに小学生並みの感想しか覚えていないのが悔しい。
 そんな渋谷を舞台に、幾人もの若者たちのほろ苦い出来事を切り取った群像オムニバス。というのが、この漫画の紹介として妥当な表現だろう。相互に登場人物が連関した構成に、いくえみ綾『潔く柔く』(第144夜)を連想する読者もいることだろう。
 ただ、本作にカタルシスはないし、嘘や罪に対するペナルティもまた、ない。物事は一定のテンションの中で経過し、登場人物の意識の中で、静かに当人を勇気づけたり、苛んだりするのだ。
 擬音や効果線などがほとんど入らない作画手法も、こうした構成に味方する。作者は単館上映の邦画が好きとのことだが、ある種のマイナー邦画に感じる“静けさ”は確かに本作と共通のものと云えるかもしれない。

純化された失敗
 人と理解しあうことや、死に物狂いで夢を追ったりすることを諦めた登場人物たちの在り方は、読む人によってはストレスが溜まるものかもしれない。しかし一方で、示される非常にフラットな価値観は、読者によっては心地よさを感じるようにも思えるのだ。
 自分がどんなに失敗しても絶望しても、世の中は関係なく回っていく。そういう、自分が世界の中心ではなく“はじっこ”にいることの安堵を、フランスの作家アルベール・カミユは代表作『異邦人』の中で“優しい無関心”と云ったが、この漫画における“渋谷のはじっこ”も、それと同じ意味合いを持っているように思える。
 そう考えれば、渋谷を描くにあたり、汚さを描こうと思えば作者は幾らでもできそうなところ、そうしなかったことにも頷ける。単に掲載される誌風を考慮してのこと以上に、作者は、自身の愛する渋谷という街を、若者たちの悩みや挫折を飲み込みつつ、無関心を装う優しい街として表現したかったのではないか。そこに過度の凄惨さは不要だったのだろう。
 かくして、純化された失敗の場所として渋谷は描かれる。しかし、失敗を味わっても、登場人物たちはそれすらも淡々と受け入れ、生きている。それはそれで、翻って「強さ」という言葉で表現されてもいいものではないだろうか。

*書誌情報*
☆通常版…A5判(21.2 x 14.8cm)、全1巻。

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