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漫画の感想やレビュー、随想などをつづる夜

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第108夜 複雑な感情が、シンプルな関係性に現れる…『式の前日』

      2018/07/20

「……だって/泣いてんじゃん?」


式の前日 (フラワーコミックス)

式の前日穂積 作、小学館『月刊flowers増刊 凜花』→『月刊flowers』掲載(2010年10月~2012年7月)

 結婚式を前日にひかえた女と男、久方ぶりに再会する幼い娘と父親、高校時代の想い人を亡くした初老の双子の兄弟、田舎に帰ってきた兄と待っていた妹、書けない小説家と転がり込んできた少女、不穏な一夜にそれなりに気を揉む猫と飼い主。
 繰り返される日常の中、1対1の対話が際立つ特別なひと時が確かにある。6様の、そんな一幕は静かに過ぎていき、やがて彼らはゆっくりと日常に還っていく。少しの痛みと優しさを湛えて。彼らの一部始終を軽やかに切り取った短編集。

区切りの日
 今ではもうだいぶ遠ざかってしまった自分の成人式の日の事を、意外とよく憶えている。当日は、幼馴染(あしからず同性である)と一緒に精一杯めかし込んで故郷の市民ホールに向かった。
 式場では、ほとんどが小学校卒業、中学卒業以来で会う人ばかりで、昔の思い出が圧縮されて現在に密着し、その反作用なのか何なのか、自分たちの未来までもが一堂に会しているように感じられて、普段の生活では感じられない(ことにしている?)永遠が見えているような気がした。
 思い返してみれば、その時以外にも、彼岸の墓参りだったり、むかし諍った知人との再会と和解だったり、そんな時にも同じ感慨を抱いた。「成人」というのは余りにもあからさまな“区切り”だが、どの場合も、家族とか友人というものについて、ふと立ち止まってじっと眺めて思わざるを得ない故のことだったのだろう。
 そんな“区切り”を迎えようとする(あるいは迎えた)不思議に魅力的な時間を、この1冊に収められた漫画たちは示している。どの作品も主要な人物は2人だけで、表面上はどうということのないやりとりが、スタイリッシュさを目指しながらもどこか泥臭さの残る画で綴られる。
 1人と1人の関わりから主人公の心に去来する、まさに万感とも云うべき思いを、敢えて静かに、最小限の分量で描いたところに、尽きない魅力があると云える。

ミスリードする対幻想
 もう1つ、この作品集には言及しなければならない要素がある。性質上、詳述できないのが歯がゆいが、ほとんどの作品が、ある種のミスリード=読み手の誤読を敢えて誘おうとする描かれ方をしているという点だ。
 例えばミステリ小説であれば、叙述トリックによって男を女であるかのように、現在を過去であるかのように、2人を1人であるかのように描くことは大いに有効だ(自分は、映像化が困難なこうした叙述トリックこそが、文字表現による物語の強力な武器だと思う)。
 しかし翻って、ミステリ的要素も持たないこの漫画において、そうしたテクニックを用いることに積極的な意味があるだろうか、とも思う。実際、そうした指摘をする読者も散見する。
 しかし、この要素は意外にも示唆的だ。
 例えば、他人の語る話を聞く時に、聞き始めに脳裏に描く話のあらましは、その人が語ろうとする本当の内容と大きく違うことがあるだろう。そんな風に、現実においてミスリードは割と不可避に存在する。
 そのように読み手がミスリードしあうのなら、物語の登場人物たちもまた、ミスリードをし合うのがリアル、と云えはしまいか。そして、この漫画の登場人物たちはその意味でリアルなのだ。
 むかし吉本隆明という在野の思想家が『共同幻想論』という本の中で「対幻想」という言葉を使った。本家の難解極まる定義を半ば無視して超乱暴に意訳すれば、「家族・友人・恋人などの“一対の関係性”のそれぞれが、“もう一方と共有している”と想像している想念」と云える、と思う。
 この漫画を読みながら「対幻想」という言葉を考える時、ミスリードしあいながらも、なお一対でいようとする、そんな登場人物たちの在り様に胸がつまる。恐らくはそれこそが、読みながら込み上げる不可思議な涙の理由なのだろう。

*書誌情報*
☆通常版のみ…新書判(17.4 x 11.2cm)、全1巻。電子書籍化済み。

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