100夜100漫

漫画の感想やレビュー、随想などをつづる夜

*

第198夜 笑いあって手を繋いで、それなのに零れる涙…『西荻夫婦』

      2018/07/23

「明日が来なくても/まあ もう充分ってカンジかな―――」「えーッ/もう充分なの?」「うまく言えないけどね」「けっこうあっさりした境地へ/行っちゃうんですね/夫婦って」「なにわかったふうな」「恋愛じゃないからね」


西荻夫婦 (フィールコミックスGOLD)

西荻夫婦やまだないと 作、祥伝社『フィール・ヤング』掲載(2000年5月~2001年2月)

 漫画家のナイトーと、会社員のミーちゃん(ミノワ)。結婚して7年目の2人は、東京の西荻窪で暮らしている。
 健康的な生活を心がけながらも、だいたい締切直前にはアシスタントのオクヤやコマダ、担当編集に迷惑をかける夫。同僚女性のノミヤや後輩のゆとり男子シンドーらと、しっかり仕事をしている妻。
 そんな対照的な2人だが、夫婦仲は良い方だ。朝、2人して大家の飼い犬を散歩させたり、アシスタントたちも交えてお喋べりしたり、結婚記念日に漫画の仕事をすっぽかして旅行したり――。
 転がる会話と共に、そんな平穏な日々を過ごしながらも、ふと漂う空気は不穏。妻を大切に思うと同時にそこからの逃走を図るナイトーと、夫の愛情を解りつつも、なぜか終わりを意識するミノワの平らかな暮らしは続いていく。奈落めいた安寧の中で、ナイトーは、ミノワは、どこへ行こうというのか。

濡れる街並み
 結婚を控えた女性の心境というものを切々と聞かされたことがある。その人とは幾度か話したくらいの仲だったのだが、ある時、人を待っている間に、ふとしたことからそういう話になったのだ。
 表面上は明るく楽しい人だった彼女はしかし、夫となる人との生活について、云い知れぬ不安を抱いているようだった。言語化に難渋した挙句、それを「いつか突然、幕が降りそう」と表現したのを憶えている。
 それはただのマリッジ・ブルーだったのかもしれないし、そういう心境は女性特有のものでもなかろうが、この漫画の初読時、この彼女の予感めいた言葉を思い出しながら頁を繰っていた。
 実際の西荻窪で撮ったであろう写真を加工して背景にしていたり、JR中央線沿線らしい固有名詞が出てきたりと、確かに題名通り、これは西荻窪で暮らす夫婦を描いた漫画だ。地元の居酒屋を訪れて夫婦で飲んだり、ガード下の商店街を手を繋いで歩いたりと、ほのぼの日常系と云えなくもないシーンも、表面的には確かにある。
 しかし、この漫画の根幹を成しているのは、やはり妻ミノワの抱く奇妙に寂寞とした気分だろう。写植でなく手書きによる控え目なモノローグが、濡れたように処理された街並みの画と相互作用して、読者の感傷を掻き立てる。
 そういうミノワの感じる寂しさは、どこから来るものなのか。
 夫婦の間に、表面化したトラブルがある訳ではない。いや、かつてあったのかもしれないし、ナイトーは明らかにその火種となり得ることをしていたりもするのだが、そこは確固たるものとしては描かれない。それにまた、夫婦は“あること”を決めて生きているのだけど、そのことが(あるいはそのことだけが)、こうした空気を創り出しているようにも自分には思えない。

立ち尽くす感覚
 思うに、その“なにも無さ”こそが彼女の寂寥感の大元にあるものではないだろうか。
 例えば、同じく夫婦を描いた連作オムニバス『くらしのいずみ』(第51夜)の諸篇が描いているのは“夫婦であることの高まり”だ。事態の大小はどうあれ、夫婦であることを強く意識する出来事が物語の中央に配置されている。そこには諍いはあっても、最終的に残る寂寞はない。
 『くらしのいずみ』が“高まり”なら、対してこの漫画が描いているのは“平坦さ”だ。茫漠たる先行きに立ち尽くすような、高すぎる空を仰いだ時にふと抱くような恐れ、とでも云えるだろうか。何の問題もなく積み重ねられていく日常に、それでも表れてしまう気持ちの間隙や空虚。そうしたものこそ本当の絶望なのかもしれない。
 ミノワの心情以上に、モノローグが皆無に近いナイトーの胸中は推し量り難く、それ故にこの漫画の結末もまた、解釈が別れるところだろう。悲観的に解釈するならば夫婦の虚無を描いた悲劇、楽観的解釈ならば物憂さを孕みながらも暮らしていく夫婦を描いた写実劇、といったところだろうか。ラスト近く、アップになった夫の表情から受け取れるものは、人それぞれかもしれない。
 ちなみにこの漫画がモデルだったりインスパイア元だったりするものとして、日本酒月桂冠のCMや、斎藤久志による映画『なにもこわいことはない』等がある。ひたひたと影響が波及した様は、まるでこの漫画の展開そのもののようでもあるが、この漫画の湛える何ものかに共感した人が多かった表れだと云えよう。
 画風や内容から、TPOを選ぶ漫画であることは間違いないが、平穏な日常と、その中で育まれていく孤独を高純度で描いている点は忘れ難い。それは、古今東西おおくの人間が抱えてきたもののはずだからだ。

*書誌情報*
☆通常版…A5判(21 x 14.8cm)、全1巻。

 - 100夜100漫 , ,

広告

広告

広告

広告

Message

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

  関連しそうな記述