第159夜 ともあれ、二人、生きていくのだ…『娚(おとこ)の一生』
2018/07/22
「……私は……昔…」「もうええわ/君の過去のなんのは/つまらん/幸せの話をすると君は下を向くんや/過去には戻れへんのに/どうして目の前のぼくを見いひんのや?」
『娚の一生』西炯子 作、小学館『月刊フラワーズ』→『フラワーズ増刊 凛花』(スピンオフ)掲載(2008年7月~2012年6月)
東京の大手電機メーカー、四つ葉電機で原子力事業部プロジェクト管理課の課長を勤める堂薗つぐみ(どうぞの・−−)は、30代も半ばを迎えた独りもの。初めて取得した長期休暇を田舎の角島(かどしま)県鶴水市にある祖母の家で過ごしていたが、入院していた祖母、下屋敷十和(しもやしき・とわ)は間もなく他界。葬儀が営まれることとなる。
その翌日、葬儀を終えて弛緩したつぐみの目の前に、見知らぬ壮年の男性が現れた。下屋敷の家の離れに居付き、我が家のように振る舞う男に困惑するつぐみ。
50代前半、関西弁を話し、東京の女子大の教授として哲学を教えていたと自己紹介する彼の名は海江田醇(かいえだ・じゅん)。エッセイ執筆や講演もこなす著名人にして、かつて大学で教鞭を取っていた祖母の元教え子だという。
祖母から離れの鍵をもらっていたと語る彼と、祖母の間には一体何があったのか。肝心なところを語らず、しばらく友人の代打で角島大学で教えるという海江田と、つぐみの行き掛かり上の同居生活が始まるのだった。
休暇は終わるも、つぐみは仕事を在宅勤務に切り替え、温泉の湧く鶴水に地熱発電のプロジェクトをぶち上げつつ、そのまま祖母の家で暮らすことにする。そんなつぐみに群がる田舎の男たち、置き去りにされた親戚の子ども、海江田の秘書で学長の御令嬢、西園寺真保(さいおんじ・まほ)も登場し、田舎の事情と仕事と、揺れる女心の日々は続く。
マルチプル・ミーニング
一昨日で発生から3年が経過した東日本大震災と数奇な関連があるとして、一部で名高い漫画である。それは後に措くとして、まず前景に立ち上がってくるのは、つぐみと海江田の不思議な同居自体の面白さだろう。
優等生で何事もソツなくこなしながらも人生に立ち尽くす、つぐみという人物もさることながら、やはり絶妙なのは海江田だ。関西弁・哲学教師・五十路というカードを揃えた上に、常に身も蓋もないこの男の云い方が、二人のやり取りを撹乱する。それは、対立なのか説諭なのか議論なのか、はたまた告白なのか分からない。分からないが、読者にもしっとりと語りかけるようで、なんとも味があるのだ。
それ故に、この漫画は第一に、つぐみという主観を通して彼の生い立ちと喜怒哀楽を解き明かす、海江田の物語なのではないだろうか。敢えて常用外の「娚」という字を用いて「おとこ」と読ませ(それは、生きていく男の傍らに立つ女のようでもある)、夏休みの自由研究のごとく「の一生」と付けたタイトルからは、やはり妙齢の女性からの視点で男やもめとなった老恩師を描き出した川上弘美『センセイの鞄』と同じ系統の名付けの力学を感じ取れる。
しかしまた、家事も仕事もしっかりこなす(=“女”と“男”とを両方こなす)、つぐみの物語である、とも当然云えるし、本来の字義通り、「めおと」をめぐる物語である、という説だって、的を外しているというわけではないだろう。恐らくは、こうした幾つもの解釈を許す言葉として、この漫画のタイトルは企まれたのだ。
それを護るために
そうした多義性がテーマの豊かさを助長しつつも、まず物語はつぐみと海江田の関係性を追って進んでいく。が、ある出来事をきっかけに、物語世界は大きな広がりを見せることとなる。
ネットスラングを用いるならば「超展開」と形容されるだろうこの展開には、賛否があるだろう。しかし、自分はこれを肯定したい。
つぐみ本人や、彼女に淡い恋心を抱いていた男たち、そして描写はないが同じように働いただろう幾人もの人々、それぞれがそれぞれのできることをするのは、自分たちの土地を護ろうという意気の現れだ。それ自体がもう、熱いものが込み上げてくる営為だが、この漫画においてはそれ以上に、つぐみの開眼を促すものとして働いていることを見逃せない。それは、“彼とわたし”というセカイ系的な世界認識を、“ここに生きるわたし”という、云うなればシャカイ系的なものへと変容させることだろう。
こうしたダイナミズムを経た上で、小さな表札というミニマムな表現に還る本編最終ページは雄弁だ。それは、幾多の個人的・社会的な山あり谷ありを経て、なおここで生きていくという宣言に、他ならないからである。
*書誌情報*
☆通常版…B6判(18.2 x 11.6cm)、全4巻(本編3、その後のスピンオフ1)。電子書籍化済み。