第62夜 彼方に挑む者達と、一切をただ抱擁する者達…『プラネテス』
2018/07/09
「そのオッサンはな/地球(おか)の上で満足できる人じゃねェんだよ/オレにはわかる」「独りで生きて/死んで/なんで満足できるんですか/バカみたいよ/宇宙は独りじゃ広すぎるのに」
『プラネテス』幸村誠 作、講談社『モーニング』掲載(1999年1月~2004年1月)
西暦2075年。まだまだ危険が伴うものの、人類は探究心と資源への渇望から、宇宙へと進出していた。しかし華やかなる宇宙航行時代の影で、宇宙のゴミ――スペースデブリの問題は深刻化を辿る一方。例え小さなネジ1本でも、第一宇宙速度以上で移動しているのだから、シャトルや宇宙ステーションにぶつかれば大惨事だ。
星野八郎太(ほしの・はちろうた)、通称ハチマキはそんなデブリの回収業者で働くスペース・サラリーマン。いつかは資金を貯め自分の宇宙船を持ちたいと考えているが、なかなかうまくいかない。同僚のフィー・カーマイケル、ユーリ・ミハイロコフ、新入社員として加わってくる田名部愛(たなべ・あい)も、それぞれの事情を抱えつつ、天翔ける塵芥を追い続ける毎日だ。
夢と現実、大人になることって、“見て見ぬふりをすること”なのか。ハチマキの惑いは続く。
勇ましくて情けない
面白いアニメを探していたら、友人が勧めてきたのが本作のアニメ版だった。自分の常として、ひとまず原作にも当たらなければ気がすまない。というわけで全4巻を入手して読んだ。
基本的な空気は、アニメも漫画も共通している。近未来、それなりに危険な仕事である宇宙空間でのゴミ拾いを業務とする人々の、いつの時代も普遍なる宮仕えの苦悩を抱えつつ、プライベートの引っ掛かりをもて余す様が描かれる。予め遺書を用意しておく程度には危険な現場の割に、のんびりした人々が多い辺りは、『パトレイバー』を彷彿とさせる(心なしか画風も似ているように思える)。
タフな女達も頼もしいが、やはり男達(特にハチマキの宇宙志向の延長線上に立つ男達)のバカな勇ましさと、情けなさ(いずれも褒め言葉)に惹き込まれる。
作品名のままに(「プラネテス」はギリシア語で「惑う者」の意。転じて「惑星」の語源でもある)、宇宙の深淵に嵌ってさんざん惑ってくれるハチマキはもちろん、その父も弟も、木星往環船の乗組員選抜試験で一緒になる男も、割り切った顔をしている博士も、根本的にはみんな同じで、渡辺淳一(『失楽園』の作者)が云ところの「冒険する性」が丸出しだ。“1つのものさえあれば、他のものは全て要らない”と断じる姿に、清々しさと憧れと感じると共に一抹の寂しさも覚える。彼らの周囲には、宇宙空間という凄絶な孤独を強いる無際限の広がりがある。多かれ少なかれ、男達はその虚ろさに圧倒され、挫けたり虚勢を張ったりする。まさにCoccoが唄ったような「強く儚い者たち」なのだ。
軽々しく愛を語れ
その、どうしようもない茫漠たる寂しさを包むのが女達だ。特に、途中から現れて誰も彼もをかき回し、ハチマキを押し退けて物語の中心のように振る舞うタナベこそ、じっさい本作の肝ではないだろうか。軽々しく「愛」という言葉を使いまくる彼女には、登場当初こそ自分もウザいという印象しか抱かなかったものの、気づいてみればその迷いの無さをハチマキさながら便りにしていた。
考えてみれば、納得のいく説明やら理論やらが付加できるならば、それは愛という以外に名前の付けられる精神現象で、そういうものを全て超越しているから愛なのだ。そんな語るに野暮なことを、外しか向いていない男達に分からせるための作品だったのかもしれない。
作中にはそんな男と女のコンビ、つまり夫婦が幾組か登場する。それぞれが、しばし離れ離れになり、それでも支えあい、それが宇宙空間での仕事に――孤独に、立ち向かう力になる。『くらしのいずみ』(第51夜)とはだいぶ毛色は違うけれども、これも夫婦を描いた作品に違いない。
愛という言葉をみだりに使うべきではないと自分は今でも思っている。思っているのだが、無限遠の宇宙と対峙するとき、もっと軽々しく言ってしまってもいいのかも、と思い始めている。
*書誌情報*
☆通常版…B6判(18.2 x 13cm)、全4巻。電子書籍化済み。