第95夜 野望を貫き、護ることこそが悪の流儀…『はじめてのあく』
2018/07/16
「悪の組織が世界を獲ろうとする理由――わかるか来栖?」
『はじめてのあく』藤木俊 作、小学館『週刊少年サンデー』掲載(2009年1月~2012年5月)
神奈川県の藤沢で暮らす高校生、渡キョーコ(わたり・――)は、ある朝とつぜん体の自由を奪われる。従兄弟の阿久野ジロー(あくの・――)がやってきて、彼女の身体を改造人間にしようと拘束したのだ。もちろん蹴り飛ばされるジロー。ジローとその姉エーコは、父親の経営(?)する“悪の組織”「キルゼムオール」が“正義の味方”によって壊滅させられたため、組織復興までの一時しのぎに親戚を頼って九州から出てきたのだという。
ずっと組織で暮らしていたため社会常識の無いジローに対し、うっかり「社会常識を身につけたら私を改造してもいい」と約束してしまったことにより、キョーコの大変な日々が始まる。ジローだけならまだしも、キョーコにマニアックな好意を寄せる「渡キョーコファンクラブ」の変態紳士の面々、他の“悪の組織”や“正義”側の人々などに巻き込まれ、ドタバタの種は尽きることがないのである――。
何気ないことの大切さは、振り返ってみたときにしか認識できない
それなりにドタバタはあれど概ね幸せで平穏な日常としての学園生活と、その一方で、往年の特撮モノ風な“悪”や“正義”の組織が(たいがいコミカルではあるが)互いに牽制しあい、場合によっては戦うという現実離れした世界。これらを並行して描くスタンスは、作者の前作『こわしや我聞』と共通している。これにより、主人公たちは学園生活がかけがえの無いものであることを、まさにその現役時代に自覚している。
普通はこんなことはできないものだ。青春が貴重なものである、という事実は、常に「あの頃」を振り返るという、後ろ向きの形でしか認識され得ないものだと思う。恐らくは、作者は自身の高校時代を輝かしいものとして振り返っているのではないだろうか。
さらに、前作よりも踏み込んだ点として、そうした日常の登場人物たちが、日常そのものを守るため、戦いの場に立ったエピソードを描いたことが挙げられると思う。基本的にギャグタッチの本作にあって、日常を守ることの大切さと、“悪”であるジローがなぜそうしようとするのかを謳い上げたあのクライマックスは、屈指の名シーンと云えるだろう。
「愛は慣れアイ」? いやいや直球ストレート
そして、本作を語る上で忘れてはならないもう一つの要素は、やはりジローとキョーコの関係性である。前作『我聞』では、ヒロインは主人公の部下であり、終盤の展開は作者の偏愛する『Gガンダム』をほぼなぞることに終止していたが、今回は少し毛色が違っている。ジローとキョーコはほぼ対等に(むしろキョーコが主導権を握ることが多いように)描かれており、終盤では、それぞれが相手をどう思っているのかがストレートに描かれている。
ジローとキョーコを始め、幾組かの男女がお互いに思いあう姿を真っ当に描いたことは、ラブコメ的にヒーローとヒロインを描くに当たって、正統な深化と云えるだろう。「愛は慣れアイ」とは『我聞』での迷台詞だが、そんな言葉が色褪せる程に、すがすがしくもニヤニヤとした気持ちになる恋愛模様が織り成される。
爽やかコミカルな学園生活、それと表裏一体を成す“悪”と“正義”の戦い、ヒーローとヒロインそれぞれの成長を描き、大団円を迎えた本作。やや荒削りな部分もあるかもしれないが、それでも名作と云いたい。
*書誌情報*
☆通常版……新書判(17.4 x 11.4cm)、全16巻。電子書籍化済み(紙媒体は絶版)。