第172夜 不気味で偉大な、その図形から逃げられない…『うずまき』
2018/07/22
「最近オレ、この町がいやでしょうがないんだ。/この町にいたらどうにかなっちまうぜ。」「どうして?」「どうしてって…君は何も感じないのか?/オレは昼間、この町を離れているからよけいに感じる…/この町の駅のホームに降りたつたびにめまいを覚える…/この町はオレを幻惑しようとしている…!!」「…私は何も感じないけど…」
『うずまき』伊藤潤二 作、小学館『週刊ビッグコミックスピリッツ』掲載(1998年1月~1999年8月)
海沿いの町、黒渦(くろうず)町で、陶芸家の父、母と弟の4人家族で暮らす女子高生・五島桐絵(ごしま・きりえ)。ある日、彼女は中学時代からのボーイフレンド斎藤秀一(さいとう・しゅういち)から、「一緒にこの町を脱出しないか?」と切り出される。
このところ自らの父が異常だと云い、「この町はうずまきに汚染され始めている」と怯える秀一の言葉に不穏なものを感じながらも、本気にはしない桐絵。しかし秀一の恐れは次第に現実のものとなり、町は“うずまき”に侵されていく。
捻れ、とぐろを巻く万象、捩れ、絡み合い、あるいは蝸牛と化す人間。人々の心の奥底に澱んだ感情をも飲み込み、台風が、バネが、ありとあらゆるうずまきが町を襲う。
すべてが“うずまき”と化した中で、桐絵と秀一が渦の中心で見たものは何だったのか――。
「不条理」な「構築」
何年か前のことだ。夜中に目を覚ました自分は居間へ行き、なぜかテレビを点けた。映し出されたのは、暗がりの中をおっかなびっくり進む少女と、その前方の洗濯機だった。洗濯機は稼働中で、明らかに異物が入っている様子でゴトゴトと嫌な音を立てている。その中を見た少女を息を飲む。体をねじ曲げ、うずまき状になった人間が入っていたからだ。
云うまでもなく、これは映画化された『うずまき』の1シーンだ(原作には存在しない)。とはいえ、そうと知ったのは、その後に原作を通読してからである。
せっかく映画の話から始まったし、自分はホラーにはそこまで通暁してもいないので、『ジョジョ』(第21夜、第70夜)の荒木飛呂彦が2011年に書いた『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』という新書での区分を援用させて貰おう。それに従うと、この漫画は「構築系ホラー」と「不条理ホラー」の間にまたがっていると思う。
すなわち、作者が“うずまき”という要素を追求して「構築」した黒渦町から脱出しようと足掻く桐絵と秀一たちを、“うずまき”の魔力ないし引力による「不条理」が包囲する。その一部始終を描いた漫画と云えるだろう。
ホラーとして考えれば、奇妙なのかもしれない。様々な“うずまき”的モチーフによって1話完結的に描かれるエピソード群には、霊的存在が匂わされる話もあれば、人間心理の恐ろしさのような話もあって定まりがない。そもそもなぜ“うずまき”なのかも分からず、明確な恐怖の対象が存在しないのだ。
しかし、それでも読者は引き込まれるだろう。昭和的でありながらも端整とグロテスクが同居した絵柄も手伝ってか、知らず知らずのうちに、このおぞましくもどこか可笑しな“うずまき”の混沌を愉しんでいるはずだ。
社会の縮図か宇宙なのか
幾つかの小エピソードが散りばめられているものの、先述のように黒渦町からの脱出を図る桐絵と秀一たちというのが大筋である。が、町に2つ目の台風が来るあたりから様子が変わってくる。
脱出しようとする2人はそのままだが、2人が逃げ去ろうとしている黒渦町は、単なる“おかしな事が起こる、呪わしく危険な場所”から、ある種の“特殊な社会”へと変貌する。この転換が鮮やかで、ここに至ってはただホラーと云い切ることが難しくなる。元ソ連・ロシア外交官の文筆家、佐藤優は、この漫画を「21世紀の資本論」と評している(本作新装版や、氏の著書『功利主義者の読書術』を参照)が、こうしたシーンが佐藤氏の着想を促したのかもしれない。
ラストシーンは、暗く湿度の高いホラーというイメージからはかけ離れたスペクタクルなものである。恐怖という感情も、人間が仮初めに造った社会などという仕組みをも超えて、そう云えば銀河も巨大な“うずまき”であることを思わせてくれる。
*書誌情報*
☆通常版…A5判(21.6 x 14.8cm)、全3巻。電子書籍化済み(紙媒体は絶版)。
☆新装版…B6判(18 x 12.8cm)、全1巻。佐藤優氏による解説付き。