第72夜 猫による夏宵の永遠軌道…『銀河鉄道の夜-最終形・初期形』
2018/07/13
「カムパネルラ また僕たち二人きりになったねえ/どこまでもどこまでも一緒に行こう」
『銀河鉄道の夜』宮沢賢治 原作、ますむらひろし 作、朝日ソノラマ(最終形1983年10月、初期形1985年8月)
学校へ通うジョバンニは、漁に出て消息が分からない父と、病気で臥せっている母親のため、新聞配達や活版所での活字拾いをして家計を助けている。父親不在のために級友たちにいじめられる中、小さい時からの友達だったカムパネルラだけはジョバンニを慮り、優しく接する。そんなカムパネルラを、ジョバンニは尊敬していた。
星を奉るケンタウル祭の夜、ジョバンニは母に飲ませる牛乳を貰いに行くが、結局もらえず、途中で級友のザネリたちに会って悪口を云われる。級友たちの中には、気の毒そうな顔をするカムパネルラもいた。落ち込んだジョバンニは、誰もいない夜の丘に寝転び、星を見あげる。いつしか彼は、列車の座席に座っていた。向かいの席にはカムパネルラがいる。ジョバンニは不思議に思いながらも、カムパネルラと夜の中に旅立っていく。銀河を巡り、往きて帰らぬ旅が始まった。
文字と画の差異
本作をアニメ映画化したものを観たのは、物心がつくかつかないかくらいの年齢だったと思う。話の筋は全く記憶に残らなかったが、青い猫のジョバンニと赤い猫のカムパネルラがこちらを向いている絵だけは憶えていた。長じて宮沢賢治の原作にも親しんだが、やはり猫のイメージは強く、ジョバンニ達を人間のイメージに置き換えるのにしばらく時間がかかった。
それを悪く捉える人もいるようだが、そう悪くもないのでは、というのが自分の考えである。物語の登場人物の“疑獣化”を考えるとき、ホームズは犬だが、宮沢賢治作品、とりわけ『銀河鉄道』の登場人物は猫が相応しい。研究者によれば、作品を読む限りむしろ宮沢賢治は猫嫌いだったという意見が多いようだが、それでもこの相性の良さは覆らない。恐らくは、猫という生き物の持つ、何か秘密を隠し持っているような印象が、そう思わせるのだろう。
原作も幾度か読み、その度きちんと読了しているはずなのに、いつもどうにも読み終わった感じがしないのは、この物語の性質からして、読者に明確に記憶され分析されるのを拒否するところがあるからなのかもしれないが、扶桑社文庫版のあとがきを読む限り、漫画化にあたり、作者自身も同じような感覚を持ったようだ。そもそも本作の趣旨は、“文字で描かれた銀河鉄道の世界を視覚化すること”だったに違いない。文字表現と画的表現の差異とは、時間の経過にあると思う。文字を1つ1つ追う視線の動きは単一時間的で、コマを一瞥する視線の動きは並行時間的である。ここの変換が、こと『銀河鉄道』においては困難を極めるのだろう。
それでも、作者ますむらひろしの試行錯誤の結果として、原作に忠実に沿いながらも、画としての要素を補完した見事な幻想世界を表現し得ている。人物を猫と置いたのも、その試行錯誤の果てのセンスある選択と評価したい。
異稿の幻惑
本作を語るにあたり、『銀河鉄道』に特異な“異稿”の存在にも触れておきたい。
宮沢賢治自身にとっても『銀河鉄道』は相当に難産な物語だったようで、第一稿が完成した後に数度の改稿が試みられている。その都度、物語の展開が異なる原稿=異稿が産まれ、その上で我々が最も親しんでいる「最終形」が成ったわけだが、ますむらひろしは、その「最終形」と「初期形」を漫画化している。当初は別々の単行本として刊行されたようだが、扶桑社文庫版、偕成社版では、「最終形」のすぐ後に「初期形」を併録している。この製本上の構成が、編集側がそれを意図したか否かに関わらず、読者を幻惑しにかかる。広大な宇宙を巡り、死と生を往還する物語が、更に重ね合わせられることで、自分がいま、物語のどこに位置しているのか判然としなくなるのだ。
位置情報を失った読者の意識は、しかし不快とは限らない。作品世界のどこにいるのか分からぬまま、空間に散りばめられた綺麗なシーンの中を進むように本書を読了した時、読者には、銀河鉄道から帰還したジョバンニのような「何とも言えず/かなしいような新しいような」感覚が訪れるだろう。本作を新たに味わうのなら、ぜひともこれらの併録版で楽しんでもらいたい。
昨年(2012年)に再映画化された『グスコーブドリの伝記』など、作者は宮沢賢治作品の漫画化を、『アタゴオル』シリーズと双璧を成すようなライフワークとしている。本作を皮切りに、猫による賢治作品を堪能するのも一興だろう。
*書誌情報*
☆扶桑社版…文庫判(15.2 x 10.6cm)、全1巻。電子書籍化済み(紙媒体は絶版)。
☆偕成社版…菊判(22 x 16cm)、全1巻。絶版。