第9夜 巨大になった世界をたゆとう、その翼で…『カブのイサキ』
2018/06/27
「うちのカブに乗る時は/目的地とか…二の次だからね」
『カブのイサキ』芦奈野ひとし 作、講談社『月刊アフタヌーン』掲載(2008年2月~2012年11月)
何だか分からないけれど「地面が10倍」になった世界。隣町より遠くへ行くなら、空を飛ぶものでないと追っつかない。少年イサキは、宅配業だか運送業だか分からない自営業をしている女性、シロさんに軽飛行機「パイパー・カブ」の乗り方を教わりながら暮らしていた。
シロの妹カジカと一緒に飛んだり、少し遠くの街までお使いに行ったり、その先で同い年くらいの飛行機乗りの女の子サヨリと知り合ったり、それにカジカが淡い焼きもちを焼いたり、空を翔ける大きな飛行船にお届け物に行ったり。標高37,760メートルになった富士山を目指したり。――そんな風にして、その日々は過ぎて行った。
あちこち見て歩くもの
旅の漫画である。うちには学生の頃に買わされた『旅の思想史』という難しい本があるが、本作を読む時、なぜだかその本のことを思い出す(浅学のため、今もってその文献の内容はうろ覚えである)。
同書によれば、人は生きることが旅である。しかし、現代日本では多くの場合、その旅の範囲というのは狭いものに思われる。生まれて成長して社会に出て、年をとって亡くなるまで、ずっと同じ場所にいるという人もいるだろう。人生を旅と捉えるのならば、その人生の旅程は穏やか過ぎるのかもしれない。本作はそれが悪いと云っているわけではない。ただ、主人公のようにそこから離れてもっと遠くに行きたいと感じる人がいる、というだけのこと。作者の前作『ヨコハマ買い出し紀行』とも、それは共通したテーマなのだと思われる。
迷うのも悪くない
作中で描かれる空の旅の空気、深夜にシロが夜明かしする蕎麦屋の空気、イサキとカジカとサヨリの三人が泊まる宿と、その夜の戸外の大風の様子。大仰なストーリーがあるわけでもなく、ただ旅の在り様が、前作同様、色と陰影が大切にされた素朴な線で描かれている。読後にはそういう情景ばかりが心に残り、それをもう一度味わいたいから本を開く。現実の旅に迷った時、迷うのも悪くないよ、と囁きかける本作は貴重である。
主題が旅することである以上、結末に意味を求めても仕方ないのかもしれない。本作のラストは恐らくは打ち切り的なものだろう。構成的なことを云えば、終盤が詰め込み過ぎな感は、やはりある。しかしそれでも、そこに至るまでの過程の方が、より本作の本質なのだと思う。物語が語られ終わった瞬間に大団円の止め絵になるような種類の作品ではなく、読者の時々に応じて、幾度も同じ頁を繰り直し読み直される種類の作品だ。
*書誌情報*
☆通常版…B6判(17.8 x 12.8cm)、全6巻。作者の言葉あり。電子書籍化済み。