第107夜 その惨状だけは、忘れずに憶えていよう…『はだしのゲン』
2018/07/20
「ぼくは/おとうちゃんがいうた麦のように/なりたいと思っています」
『はだしのゲン』中沢啓治 作、集英社『週刊少年ジャンプ』→市民誌『市民』→日本共産党中央委員会『文化評論』→日本教職員組合機関紙『教育評論』掲載(1973年5月~1985年)
1945年、広島市。戦況は悪化の一途を辿っていたが、人々がそれを知ることはなく、民間人の間でも軍国主義が支配的だった。中岡(なかおか)家は、両親、4男1女の7人家族。下駄の絵付け職人をしている父親の大吉(だいきち)は反戦思想の持ち主で、そのために一家は町内会長の鮫島(さめじま)に睨まれ、買い物先や学校でも嫌がらせを受けることとなった。
父の影響を受け、筋の通らないことは許せない三男の元(げん)は、そんな嫌がらせに弟の進次と共に仕返しを仕掛けては騒動を大きくすることもしばしば。それでも元の本心に触れた人が手を差し伸べてくれることもあり、長兄の海軍志願や次兄の疎開などもありつつ、どうにか一家は広島で暮らしていた–その時までは。
8月6日、午前8時15分。広島の町に原子爆弾が投下され、夥しい民間人が死傷、酸鼻を極める光景が現出された。元は肉親を喪い、それでも生き残った家族と懸命に廃墟の中を生きる。飢餓、“ピカの毒”を忌避する非人情な人々の仕打ち、そして原爆症による身体の異常。襲い来る幾多の苦難に、それでも明るさを失わずに立ち向かうのだった。
終戦を迎え、広島の町は急速に復興したが、物資の欠乏と原爆症の苦しみは終わらない。元は仲間とともに金稼ぎに邁進しつつ、戦災孤児を使い捨てようとする悪党や、被爆者たちを原爆症の研究対象としてしか見ないアメリカなど、おかしいと感じるものに、手当たり次第に立ち向かっていく。
トラウマの意味
高校1年生の夏、国語の教師が夏休みの宿題として小説の通読を課した。井伏鱒二の『黒い雨』である。自分はそれを、旅先の海水浴場の海の家で読了した(8月下旬まで放置していたので、そうせざるを得なかったのだ)のだが、作中の、原爆による悲惨な死体が放置されている場面の腐臭が、ふと現実の夏の暑さにまで漂ってきそうで閉口したものだ。
この漫画についても同様のイメージを持っている人が多いのではないだろうか。自分もそうだったし、その印象はそれなりに正しいと思う。恐らくは小学校に置かれていたものを読んだのが最初だと思うが、途中の巻までしか置かれていなかったのか、原爆が投下され、夥しい人々が傷ついて絶命していく辺りまでの記憶しかなかった。原爆の爆発により、皮膚が剥けてゾンビのようになった人々の、ガラス片が体中に食い込んだり傷口に蛆が湧いている描写は克明で、小学生だった自分にとって、トラウマ的な記憶として心に残ったのは確かだ。
中学生になったとき、世界には国際法というものが存在し、戦争になっても非戦闘員はみだりに攻撃されないことになっている、ということを知ったけれど、この漫画の記憶がこびりついた頭には空疎な概念に思えた。この漫画が純然たる創作ではなく、作者の半自伝的な作品であることを思うまでもなく、原爆の投下もその後の地獄絵図も、かつて本当にあったことだ、ということは確認しなければならないと思う。
原爆で終わりじゃない
戦争が終わり街が復興するに従い、直接的に凄惨な描写は少なくなっていく。1949年に誕生した広島カープを元の弟分が盛んに応援し、街を市電が走り、米軍相手の街娼であるパンパン娘がいて大衆劇場も建っていたりと、戦後まもなくでありながらも意外にのんきで、同時に欲望が渦巻く広島の光景(この延長線上に「夕凪の街」(第5夜)があるのだろう)は、やはり作者の経験によるものと思われる。
一方で、広島ヤクザの暗躍や被爆者の標本を集めるアメリカの研究機関、弟分たちに解説する形で元が話す様々なエピソードなどの中には、一歩引いて捉えなければならないだろうものも多い。この辺りは、途中で思想的な立場を持つ媒体に発表の場が移されたことが関係していると思われる。こうした背景を了解した上で、やはりこの漫画は読み継がれていくべきだろう。
生物が変化の存在である限り、ある瞬間に抱いた思いが永続することは困難で、それ故にその瞬間の思いを器物に留めるということを人間は行う。例えば『うしおととら』(第64夜)の“獣の槍”は、怨みを結晶化した器物だ。同様のことが、人が作品を創る時にも云えるのではないか。
そうであるのなら、この漫画もやはり、反戦・反核などの思いが留められた“獣の槍”だ。そしてそれ以上に、地獄のような惨状から、作中でよく云われる言を引けば「麦のように」立ち直らんとする、人間の強さを謳った、元という人間の青春の物語だ。
ネットでは数年前から散見される「くやしいのう」という言葉と、原爆の災禍の描写だけが云われることの多い漫画だが、それだけではないことを、読者は知ることになるだろう。なお、最終話で「第一部 完」となっているものの、第二部は描かれていない。今はもう故人となった作者からは、晩年に読者それぞれに思い描いて欲しい旨の発言があった。
*書誌情報*
☆汐文社版…B6判(18.2 x 12.8cm)、全10巻。電子書籍化済み。
☆汐文社愛蔵版…四六版(23.8 x 20cm)、全10巻。
☆集英社漫画文庫版…文庫判、全5巻。絶版。
☆ほるぷ出版社版…菊判変型(22 x 16cm)、全10巻(11巻~20巻は中沢啓治平和マンガ作品集として短編等を収録)。
☆中公愛蔵版…A5判(21 x 14.6cm)、全3巻。在庫僅少。
☆中公文庫版…文庫判(15 x 10.6cm)、全7巻。電子書籍化済み。