第186夜 善悪の彼岸すら超えて、貫け…『ジキルとハイドと裁判員』
2018/07/23
「正義とはルール。悪とはルールを犯すこと。そうダロ?/だとしたら――/お前も悪ダナ。/適正な手続きで判決を下すルールを、犯した。」「……/は…はは…何言ってんだ、僕が悪だなんて…/ルールが正義とか、世の中ってそんな単純なもんじゃないよ。」「…………」「僕が悪だって…?/そんな…/そんなこと、あるもんか…」
『ジキルとハイドと裁判員』森田崇 漫画、北原雅紀 脚本、法律監修 今井秀智、小学館『ビッグコミックスペリオール』掲載(2008年12月~2010年9月)
2009年8月。東京地方裁判所で、裁判員制度の施行に基づいた初の公判が行われた。
東京地裁の判事補(つまりは駆け出し裁判官)、辺見直留(へんみ・じきる)は、毎月の新件受理数が既決事件数を超えてしまう赤字っぷりから“赤のジキル”と揶揄されるほど丁寧な仕事で知られていた。そんな彼は、上司の裁判長、金丸正一(かねまる・しょういち)と先輩にあたる判事の薬師寺大(やくしじ・まさる)の3人で、初めての裁判員裁判を担当することとなる。
上司たちの助けもあり無難に公判初日をやり過ごしたジキルの前に、突然現れたのはハイドと名乗る異形の者。ハイドの力により、ほとんどの人間の背後に憑依している“トントン”と呼ばれる存在から、自らの寿命32日分をもとに生成される“グゥ”と引き換えに、その人物の「行動の記録」を聞き出せるようになったジキルは、一足飛びに事件の真相を知ることができるようになる。
しかしそれは、ジキルの孤独な戦いの始まりだった。自己犠牲や単なる保身から真実を云わない被告人。状況に安易に左右される裁判員たち。傲慢さと出世欲を隠し切れない裁判長。あくまで誠実な裁判を追い求める先輩判事。
自身だけが知る真実に基づいた判決を求め、裁判員たちを時に欺瞞し、時に脅し、ジキルの裁判員裁判は続いていく。人に許された因果を超えて真実を知るジキルの所業は、やがて彼がほのかな想いを寄せる小嶋菜々子(こじま・ななこ)の父親にまつわる過去の事件と、最凶の犯罪者をめぐる裁きの場を招来するのだった。
血涙まみれの独善
高校生の頃に行事でやった演劇の演目に、筒井康隆の『12人の浮かれる男』があった。もっとも、キャストが男女混成だったので『~浮かれる者たち』と改題したのだが。
筒井康隆のこの戯曲は、アメリカのドラマ作品『十二人の怒れる男』をパロディしたものだ。『怒れる男』が陪審員たちが有罪と思われた被告を無罪とする人間賛歌的作品であるのに対し、『浮かれる男』では絶対無罪と思われた被告を、陪審員たちが暇つぶしのために有罪にしていくという、筒井作品らしいブラックな味わいの作品だった(全くの余談だが、同じく『怒れる男』を下敷きにした近作では三谷幸喜の『12人の優しい日本人』もある)。
陪審員制度が日本には存在しないため、素人の人間たちの多数決で有罪か無罪か(有罪なら量刑も)決まってしまうということが、その頃の自分にはとても奇妙に思えた。が、十数年後にそれに近い制度が日本でも開始されることになり、その奇妙がある意味での恐ろしさとして感じられるようになった。ちょうどその頃、この漫画の連載は始まっている。
裁判員制度を扱った漫画は本作の他にも、かわすみひろし作画『裁判員の女神』などがあり、無二というわけではない。それでもこの漫画が独特であるのは、他が裁判員制度だけを主体にしたオーソドックスなものであるのに対し、この漫画でのそれは作品を構成する一要素でしかないところにある。
冒頭、読者は確かに裁判員制度という現実的なテーマを置いた社会派漫画と思わされる。しかし、ジキルを人知を超えた場にいざなうハイドと、背後霊のように人間に憑き生活を記録し続けるトントン、人の寿命から生成されるトントンの好物グゥといった道具立てが登場することにより、ジキルは“正義を追及すること自体が裁判官としての職分を逸脱していく”という自己矛盾を強いられる。この漫画はむしろ、孤独に痛ましく正義を追及する、若き裁判官の姿を第一に描いたものだと云えるだろう。
要約すれば“命を削って真実を垣間見る”と云える禍々しい仕組みと、それを行使するジキルの心情は、やはり大場つぐみ 作/小畑健 画『DEATH NOTE』の影響下にあると云いたくなる。ジキルが目指すのは、あくまで真実に沿った正義の実現であるように再三云われるが、しかし、そのために丁々発止と論陣を張り議論の行方を傾けていく彼の顔には、普通ならば絶対に手にし得ない力を手にした八神月的な恍惚が仄見える。
それは明らかに独善である。裁判官の態度として、正しいのは先輩である薬師寺の態度であろうことに違いない。しかし、それでも自らの寿命を削り、裁判官としての禁じ手を連発してまで真実を追うジキルには、善悪を超えたカタルシスが感じられるのだ。
折り合いを付けてでも踊れ
とはいえ、彼もまた組織に所属する人間であるという軛(くびき)を外れることはできない。もちろんステレオタイプに描かれているのだろうが、裁判長の金丸の老獪さには戦慄させられるし、あくまで職務に忠実であろうとする先輩の薬師寺は、それ故に職分を逸脱しようとするジキルを冷徹に追い込んでいく。
そんな風に上司たちの目を掻い潜りながら、自分の知る真実に判決を近づけるべく、裁判官としての禁を犯して裁判員たちを誘導するジキルの立ち回りは、ひりつく。その意味では、“組織の下っ端が、どのようにして自分の意見に周囲を巻き込み、影響力を増していくか”という、ソフィスト的な手法の紹介という側面も持ち合わせていると云えよう。
もちろん、その道程は荊の道だ。裁判員はともかく前述の裁判官たちは海千山千である。特に本音を漏らす金丸の脂ぎった顔は、議論を扇動している時のジキルのそれとは違った意味で強いインパクトをともなっている。彼らの“怒りと正反対な柔和”さとか、“欺いた快感を押し隠した誠実さ”とか、そういった類の表情は、人間という存在の極北を見せつけられるようで恐ろしい。明らかになる事件の真相とはまた違った次元の慄きを読者に与えるだろう。
あくまで私見だが、裁判員制度が当初の予想よりも混乱せずに定着したためだろうか、この漫画も2年足らずで終幕となった。とはいえ、現行制度と同様の形で裁判員の評議を疑似体験できる資料的な意味と、同時に正義を示すために法に背くアンビバレントなスリルと苦味とを味わえる一作だ。
*書誌情報*
☆通常版…B6判(17.8 x 12.8cm)、全5巻。電子書籍化済み(紙媒体は絶版)。