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ぬらりひょんの孫(椎橋寛)…日本古来の“妖怪もの”の正統|100夜100漫 第2夜

「若頭のお役目たしかに承りました/今後――――いかなることがございましても/この盃決してお返し致しません」


ぬらりひょんの孫 1 (ジャンプコミックス)

ぬらりひょんの孫』椎橋寛 作、集英社『週間少年ジャンプ』掲載(2008年3月~2012年6月)

『ぬらりひょんの孫』あらすじ

 中学1年生の奴良リクオは、妖怪の血が4分の1だけ流れているクォーター。いつもは普通の人間だが、夜にはときどき祖父から受け継いだ“ぬらりひょん”の血が覚醒し妖怪に変化する。祖父は関東の親分として妖怪たちの間では知られた存在で、いまも家は妖怪任侠集団「奴良組(ぬらぐみ)」の本家として多くの妖怪が寄宿する。そんな家でリクオは妖怪に囲まれて育ったが、好奇心旺盛な同級生達には家のことも自分が妖怪クォーターであることも秘密にしている。
 祖父は妖怪の血が覚醒してきたリクオに跡目をと言い出すが、4分の3は人間のリクオは複雑な気持ち。組内にもリクオの跡目襲名を快く思わない不穏分子がいたり、奴良組のごたごたに乗じて関東を狙う組織があったり、妖怪の天敵陰陽師が目を付けたりで気が抜けない。
 それでも、覚醒時のリクオは云う。「全ての妖怪はオレの後ろで百鬼夜行の群れとなれ」。果たしてリクオは、人も妖怪も畏敬する、“畏れをまとう者”になれるのか。組を挙げての出入りが始まる。

妖怪画へのこだわり

 昔、歴史系の出版物の制作を手伝ったことがあり、鳥山石燕(とりやま・せきえん)の名前はその時に憶えた。江戸中期の浮世絵師で、妖怪画が得意だったそうだが、ジャンプ漫画のコミックスでその名前を見ることになるとは思わなかった。石燕や竹原春泉(たけはら・しゅんせん)、河鍋暁斎(かわなべ・きょうさい)といった絵師の仕事を参考とした本作の妖怪たちは、多少のアレンジはあるにせよ、由緒正しい存在ばかりである。そういった意味では水木しげるや京極夏彦といった『怪』の面々に連なる作者と云えるかもしれない。
 こだわりは描画にもみることができる。毛筆による特に少年漫画の作画は、恐らくは和月伸宏の『るろうに剣心』が近年では最も有名で、更にその源流は格闘ゲーム『サムライスピリッツ』シリーズのデモ画像から来ていると思われるが、本作でもここぞという場面で毛筆画や毛筆の台詞書きを取り入れている。「どろろん」とばかりに立ち上る煙霧の描写など、江戸期の絵師のそれを思わせる。このように現代の少年漫画で妖怪画を目指したという一点を取っても意欲的な作品と云えるだろう。

畏れと纏

 作中で再三繰り返される概念に“畏(おそ)れ”というものがある。単なる恐怖ではなく、その者の偉容や心意気に圧倒され、尊崇するというほどの意味と解釈される。
 妖怪同士の闘いではこの畏れの取り合いになるということだが、実も蓋もないことを云うと、他作品における“戦闘力”などと同じ強さの尺度と考えられる。但し、そこは妖怪、主人公は配下の妖怪の畏れを自らに取り入れて融合させ、飛躍的に能力を伸張させることができるようになる。これが纏(まとい)である。この纏は、存外斬新な概念である。某作品の「元気玉」のように、クライマックスで皆の力が結集するシーンは他作品でもよくみられる。しかし力を与えた側はそれきりで、結局は与えられた側が1人でそれを放つ。この点が纏は違う。主人公が纏うのは、存在そのものである。しかし融合ではない。別個の意志はそのままに、しかし硬く結集して敵を討つのだ。この一体感は、妖怪ものだからこそ実現し得たとも言えるが、画期的な演出に繋がる可能性を秘めていると思う。
 終盤は少しばかり失速した感のある本作だが、それでも、正統的な流れの上にある妖怪漫画としてゼロ年代に登場し、無事に描き切られる形で終わりを迎えられたことを喜びたい。

*書誌情報*
☆通常版:新書判(17.2 x 11.4cm)、全25巻。電子書籍化済み。

☆カラー版:魑魅魍魎の主編、羽衣狐編のみKindleでカラー化されている。

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