第78夜 戦後復興期の日本が牌に映る…『哲也-雀聖と呼ばれた男-』
2018/07/13
「…そうさ/俺達は汚ねえ世界にいるんだ/だけど俺達 玄人は/ここでしか生きられねえのさ…/なァ…/房州さん…」
『哲也–雀聖と呼ばれた男-』さいふうめい 原案、星野泰視 作、講談社『週刊少年マガジン』掲載(1997年33号月~2004年12月)
太平洋戦争での日本の敗色が濃厚になってきた昭和19年(1944年)。15歳の阿佐田哲也(あさだ・てつや)は、軍需工場の同僚、“おっちゃん”から博打の手ほどきを受ける。1年後、終戦をむかえ焼け野原になった東京で、哲也は途方に暮れていた。学校へも戻れず、働いても収入は僅か。まともな暮らしは望めなかった。焦る哲也を、会社の古株たちは“面白い場所”へと誘う。連れて行かれたのは、新入りの給料をむしりとろうとする賭場だった。しかし、そこで哲也の才覚は開花。自分の生きていく道を見出した哲也は荒稼ぎを始める。
そんな哲也の前に現れた博打打ちの印南(いんなみ)は、哲也に「金になる話がある」と告げる。それは、横須賀米軍基地で夜な夜な行われる米軍兵相手の麻雀賭博だった。勝負に時間がかかると敬遠していた麻雀に触れ、哲也は手ごたえを覚える。
その後、玄人の師匠、房州(ぼうしゅう)より玄人としての心技を伝授され、哲也は師の窮地すら救う麻雀打ちに成長する。後に雀聖と云われた玄人(バイニン)、“坊や哲”が誕生しようとしていた。
新宿をヤサに、ガン牌の印南、無二のライバルのドサ健(どさけん)ら、各地の玄人らと鎬を削る、坊や哲の麻雀勝負放浪譚が始まる。
雀卓上のミステリ
自分は麻雀を打てない。高校、大学と、触れようと思えば触れられる機会はあったのだが、どうも縁がないままに今に至っている。それでも本作は欠かさず読んでしまう程の魅力があった。
無論、作中で語られている麻雀の細かい要素は分からない(さすがにツモ、ロン、和了くらいは分かるけれど)。それでも面白いのだ。
まず、毎回登場する玄人が半端ではない。ほぼ毎度、哲也は麻雀の鬼とも云える玄人達と激突するのだが、その造形が物凄い。どうみても爬虫類にしか見えなかったり、時代考証を無視して流行の芸能人風(連載当時の、ではあるが)だったり。しかもそんな彼らが使う玄人技にまた驚かされる。壁役(麻雀の打ち手とギャラリーがグルで、他人の牌を教えること)、コンビ打ち(打ち手4人中2人が協力して打つこと)などは序の口で、ガン牌(何らかの目印で牌を識別すること)、積み込み(牌を混ぜている時に自分の手牌に有利な牌が来るように仕込むこと)など、人間業の限界に挑戦するような絶技の応酬である。
初見では魔法でも使っているかのように見える、そんな玄人技のからくりを、哲也が見抜き、対抗していく様子には、まるでミステリー小説の解決編を読んでいるような魅力がある。麻雀漫画としてのリアリティは自分には分からないが、麻雀が分からなくても、この点だけでも十分な面白さを堪能できる。
時代とロマンス
ゼロ年代以降、賭博や広い意味での“賭け”を題材とした漫画も裾野が広がり、福本伸行の一連の作品や迫稔雄『嘘喰い』など、従来の麻雀や競馬の実録ものという枠組みに捉われない作品が出現してきた。それらの殺伐とした作風に対し、本作に幾ばくかの潤いを感じるのはなぜだろう。思うに、それは、時代性とロマンスがあるが故ではないだろうか。
本作の下敷きになった『麻雀放浪記』は、著者である阿佐田哲也(本名は色川武大(いろかわたけひろ)という実在の人物である)の自伝的小説だ。昭和20年代の新宿にはヤミ市があるし、当然、食糧事情は悪い。寿司はおろか銀シャリの丼飯だって法外な値段で、バーで出てくるのも豚の生レバーに塩を振ったものや、恐らくカストリ焼酎であろう透明なコップ酒だ。戦災孤児が沢山いるし、芸者の身請けの話が当たり前にあったりする。もっと云えば、玄人という存在自体、あの時代を体現するものなのだ。そこに、終戦直後という時代の匂いを嗅ぎ取れると云っても、そう頓珍漢ではあるまい。
もう1つ、ロマンスである。現実の阿佐田哲也の若かりし頃に倣って、本作の哲也も女によく慕われる。とはいっても大恋愛に発展するわけではない。放浪する先々で出会いがあり、恋心とも云えぬような憧れを、哲也は女たちにもたらして去る。その様子はいかにもハードボイルドで、哲也の玄人としての鬼気迫る執念と表裏をなして味わい深い。
そのような意味で、賭博漫画であると同時に、汲めども尽きぬ叙情を湛えた作品とも云えるのだ。
*書誌情報*
☆通常版…新書判(17 x 11.6cm)、全41巻。電子書籍化済み(紙媒体は絶版)。
☆文庫版…文庫判(14.8 x 10.6cm)、全22巻。絶版。