第29夜 リミッター解除した男達の極限妄想…『妄想戦士ヤマモト』
2018/07/19
「俺たちはたしかにクズだ/自分でもヒクぐらいのクズだ/だがっ/だからこそっ/俺たちは漢でありたいと願うのだ!」
『妄想戦士ヤマモト』小野寺浩二 作、少年画報社『アワーズライト』→『アワーズ増刊』→『ヤングキングアワーズ』掲載(2000年7月~2005年12月)
(少なくとも本作初期までは)普通の高校生、松下吾朗(まつした・ごろう)は、捨て猫を前に「「助けてあげたら猫耳少女になって恩返しに来るかもしれない」」と萌える展開を妄想する妄想戦士にしてクラスの鼻つまみ者、山本一番星(やまもと・いちばんぼし)と友人になる。
独特な(いや、マッドと云うべきか)発想=妄想と、すさまじい行動力で毎度大騒動を巻き起こす山本。生身の女は不要と言い切るフィギュア狂、渡辺流星(わたなべ・りゅうせい)。高校教師にしてめがねっ娘教団教祖(日本の教育現場が心配です)、南雲鏡二(なぐも・きょうじ)。そして、そんな変人たちと過ごすうち、徐々にその才能を開花させていく松下…。妄想戦士たちの萌えをめぐっての熱く間違った戦いが続く…!
真摯な人々
「萌え」という概念が人口に膾炙して久しいが、その起源には諸説あり、未だに確たる定説がないようである。この記事を書いている2013年現在の感覚からすると、一時期よりも「萌え」という言葉を見聞きする機会が減ったようにも思えるが、どうだろうか。
本作は、その「萌え」をめぐる言説が(少なくとも自分の周囲では)喧しかった2000年に連載が始まっている。漫画・アニメ・ゲームといったサブカルチャーに片足を突っ込んだ人になら分かると思うが、架空のキャラクターに恋をする、現実ではまずありえないシチュエーションに憧れる、といった事態は、思春期をこじらせるとままあることで、ある知人はSNKによる往年の武器格闘ゲーム『侍魂(サムライスピリッツ)』に出てくるアイヌの少女剣士ナコルルが初恋の人だったという。そのナコルルに片思いの人もそうだったのだが、ひたすら真摯に自分の理想を追う人達こそが、「萌え」という感情の担い手だったのではないかと思う。
それにしても、本作の登場人物達はタガが外れた「萌え」求道者ばかりだ。特に、いわゆる「眼鏡っ娘」への偏愛は空恐ろしいものを感じる。作者自身の嗜好がそうなのだろう。
そのあまりにも強烈なパトスの奔流に、ひいてしまう読者はいるだろう。だが、それでも彼らの真摯さには一抹の感銘を受ける。妥協をするのなら幾らでも妥協はできる。誰も見てはいない。だが、彼らはそこで自分の欲望に嘘をつかず、本当に納得のいくものだけを愛する。その姿は立派である。たとえ求めるものの前提がこの上なく間違ったものだとしても。
「萌え」>「燃え」
本作の、“間違っているが「それもまたよし」”と突っ走る出力の高さは、島本和彦の作品を思わせる。調べたところによると、やはり作者は島本和彦に影響を受けたようだ。
しかし一方で、両者には差異がある。島本作品にはある種の一線がある。主人公にあるのは純化された勢いであり、「燃え」を希求しても「萌え」を真正面から希求することはない。翻って本作の主人公達には「萌え」の希求から全てが立ち挙がっている。因果が逆なのだ。
このことが、作品全体の雰囲気に多大な影響をもたらしているのは当然だろう。従って、島本作品のような爽快感とは少し違うものの、「萌え」に全てをかけた男たちの狂騒を高出力で描き続けた本作は、少女たちを主人公とした「萌えの体現者」ではなく、それを愛する「萌える側」を描いた漫画の中においても、独自の位置を占めていると云えるだろう。
*書誌情報*
☆通常版…B6判(17.8 x 12.8cm)、全5巻。紙媒体絶版。電子書籍化済み。
☆HDリマスター版…B6判(17.8 x 12.8cm)、全2巻。前書き漫画、通常版未収録短編、その他描き下ろしあり。宮原るり、石黒正数両氏による寄稿あり。通常版掲載の前書き、後書き、4コマ漫画、カバー下記載などは割愛されている。