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漫画の感想やレビュー、随想などをつづる夜

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第202夜 血溜まりに“真の友情”を映して…『バトル・ロワイヤル』

      2018/07/24

「オレもだ……/オレもお前も少しずつ間違っていたんだ…/――だから俺とお前でだっ」「えっ!?」「オレの判断とお前の心(ハート)が一つになって……/本当の正解だっ」「………/……………ありがとう/川田」「――ったく………/お前ってヤツは涙腺の涸れねえ男だなっ」


バトル・ロワイアル (1) (ヤングチャンピオンコミックス)

バトル・ロワイヤル高見広春 原作、田口雅之 作画、秋田書店『ヤングチャンピオン』掲載(2000年2月~2005年2月)

 極東の全体主義国家、大東亜共和国。軍事政策を推し進め、アメリカを筆頭に世界各国と対立し半鎖国状態にあるこの国は、それでも優秀な工業輸出産品のために国民1人当たりGDPは世界一であり、一見、人々の暮らしは豊かだった。敵性音楽として目くじらを立てられるロックンロールも、ヤミルートなどの抜け道があって規制は案外緩い。
 しかし、この国には「ほんとうに最悪なシロモノ」もあった。正式名称、大東亜共和国戦闘実験第68番プログラム。1947年の第1回から毎年、全国の中学3年生からランダムに選出された50クラスに対し、閉鎖された空間で最後の1人になるまで殺し合いをさせる国家プロジェクトである。政府が“国家防衛上の必要から”と説明するこの制度は、当初こそ国民の猛反発があったものの、現在は表だって異を唱える者も少なく、毎年厳然と実施されていた。
 1997年、リトルリーグ時代は天才ショートと呼ばれ、ご法度のロックンロールを愛する“ワイルドセブン”こと七原秋也(ななはら・しゅうや)は、修学旅行に行くバスの中で眠らされ、見知らぬ教室で目を覚ます。彼ら香川県城岩町立城岩中学校3年B組の42人は、今回の“プログラム”実施対象である50クラスのうち1クラスに選ばれたのだ。
 秋也たちのゲームの舞台となるのは、香川県沖木島。外界から隔絶された世界で、1人ずつ異なった武器が支給され、クラスメイト同士による“椅子取りゲーム”が始まった。
 デス・ゲームの中、親友の国信慶時(くにのぶ・よしとき)が思いを寄せる中川典子(なかがわ・のりこ)と出会った秋也は、彼女を護ることを誓い、たくましい体躯をもち顔に傷を刻んだ転校生、川田章五(かわだ・しょうご)と共にこの“プログラム”そのものを破壊し政府にカウンターパンチを食らわそうと誓う。
 しかし、クラスメイトたちの思いは1つではない。無機質な天才、桐山和雄(きりやま・かずお)。既に魔性の芳香を放つ相馬光子(そうま・みつこ)。秋也に匹敵する運動神経とコンピューターの知識を持ち合わせるクールな色男の“ザ・サードマン”三村信史(みむら・しんじ)。ストイックな拳法使い杉村弘樹(すぎむら・ひろき)――。
 ゲームに乗った“ヤル気”の者、絶望して死を選ぶ者、仲間を信じて呼びかける者。交錯する意思と血しぶきの中、秋也は典子を護れるのか。そして、川田の云う“ゲーム脱出のプラン”とは。

衝撃の画
 大学生の頃、ある先輩がふと「こんな黒いのが出たらしいよ」と新刊の小説を教えてくれた。云うまでもなくその小説が、この漫画の原作だったわけだが、その先輩の面白いものへの嗅覚を信用していた自分はさっそく本を購入し、一昼夜それこそぶっ通しで読み終えてしまった。
 悲惨な設定のもとで描かれた物語は、当たり前のように血みどろで暴力に満ちていて、しかし軽快で、そして現実に対する強い異議申し立てを感じさせた。よく引き合いに出される『蠅の王』は英米文学の講義で知ってはいたが、自分が過ごす「いま、ここ」に近いこの小説の方が、自分の心にはより直截に響いた。若かったこともあって相当のめり込み、その翌年に映画化された際には、紹介してくれた先輩を含む幾人かで公開初日に映画館に行き、「走れ!!」に唆されて全員で街を走って帰ってきた。
 映画に先行して、この漫画の連載は始まっていたのだが、正直なところ、しばらく自分はその絵柄のために二の足を踏んでいた。だって人物がどう見ても中学生ではないのだ。しかし、前出の先輩に「じゃあ綺麗な画や可愛い画で殺し合う方がよかった?」と聞かれ、それも妙だと思った。後の『未来日記』のように、それはそれでアリではあるが、この作品の有無を云わせぬ凄惨さは、そこにそぐわないと感じたからだ。
 ともあれ、そうして改めて読み出したこの漫画は、やはり衝撃的だった。文字情報による暴力描写を画にすると、こんなにも凄惨になるということに、単純に慄いた。通常版12巻末にイラストと文章を寄せている「一番近くにいる友人」山田貴由の『シグルイ』(第158夜)では“人体を斬る”ことを突き詰めて描いているが、対してこちらは銃弾に蜂の巣にされる人体の描写が肝だと思う。もちろん銃弾だけでなく、ボウガンの矢が、鉈の刃が、あるいは爆発が人体を破壊する。その人物が美形だろうと、物語上重要だろうと、そんなことはまったく無関係に、だ。
 原作にはほとんど無いエロティックな描写も相まって、万人にはとても勧められない、しかしその強烈さが読者に何がしか感動を与える画面に仕上がっていると云えよう。

奇作にして快作
 そして画以上に、各人物のバックボーンの描かれ方や物語の展開に、漫画家の手腕が躍如している。通常版全15巻のうち幾つかの巻中や巻末にある原作者と漫画家による「コミックス特別対談」で触れられているように、原作者が描かなかったところ、曖昧にしたままだったところに漫画家は緻密な補足を施し、さらに「こういうのはどうか?」と翻案してみせているのだ。
 その結果、前述したような画の効果も手伝って、原作以上に中学生離れした面々による超人的な戦い(例えば桐山VS杉村)が現前したりもするのだが、その違和感を補って余りあるのが、登場人物たちの過去の記憶や、それに連なる現在の在り様、そしてデス・ゲームの中での意識の変化(≒成長と云ってもいいだろう)といった諸要素だ。例えば七原は、原作よりも直情的な正義漢として描かれているが、それは父母の記憶に起源を持っており、デス・ゲームの中で挫折や葛藤を味わいながらその信念を深化させていく様は、殺し合いの行方とはまた別個に読者を引き付けるだろう。
 このような各人の指向が絡み合って紡がれる、夥しいまでの死のエピソード群は、死を目前にすることで曝露される人間の赤裸々な姿の軌跡とも云える。状況に対するシニカルな視線が仄見える原作とも、暴力や社会状況の過激さを追究した映画とも異なる、これは漫画独自の視点だ。こうした人物の捉え方こそが、この漫画を単なる暴力描写・性描写が過激な作品としてだけでなく、人間というものの諸相を描いた作品としても成立させている。
 血と漆黒に塗れた、読者を選ぶ奇作でありながら、捻くれた印象よりもストレートな味わいが際立つ点は快作と云ってもいいだろう。最終盤の展開が少しばかり冗漫な印象を受けるが、その点を差し引いても、一読の価値はある漫画である。覚悟の上で頁を繰られたい。

*書誌情報*
☆通常版…B6判(18 x 13cm)、全15巻。電子書籍化済み。

☆文庫版…文庫判(14.8 x 10.5cm)、全8巻。在庫僅少。

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