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【一会】『いぬやしき 2』……孤独と恍惚を抱え、戦う機能をイメージする

      2018/07/21

いぬやしき(2) (イブニングKC)

 刊行からはや1か月弱ということで、かなり出遅れた感がしますが、『いぬやしき2巻について一くさり語ります。
 会社でも家庭でも肩身の狭い、歳よりもかなり老けて見られる犬屋敷壱郎(いぬやしき・いちろう)58歳が、ふとしたアクシデントによって、自分の記憶や意識を保ったまま強力な武装を持ったアンドロイドになってしまった、というのが物語の冒頭。既に人間ではなくなってしまったという絶望を味わいながらも、暴力にさいなまれる人の命を救った時、自分が人間として「生きてる感じ」を感じられたことから、引き続き今まで通りの生活を送りつつ、人の命を救おうと決意するところまでが1巻のお話でした。

 今巻では壱郎と時を同じくしてアンドロイドとなった高校生、獅子神晧(ししがみ・ひろ)のエピソードが全体のおよそ半分を占めています。幼い頃からの友達で『GANTZ』信者の安堂を気遣う優しさと『ONE PIECE』に涙する感受性の豊かさを併せ持ちつつも、どこか不穏さが伴う晧。彼が自分の「生きてる感じ」のためにやっていることが明らかになった時のインパクトは、やはり大きいと思います。
 同じ「生きてる感じ」のために、著しく異なる方法を選ぶ壱郎と晧ですが、それは単に“老人が温厚で、若者が冷たい”という世代論によるものではないでしょう。極端な話、現代に生きている者として、自分は逆パターンも余裕で想像できるわけで、あくまで壱郎、晧という個々の“元人間”の個性によるものなのだと思います。
 そうしたこともあり、壱郎の優しさにも晧のタガの外れぶりにも、(誤解を恐れず云えば)自分はどちらにもある程度共感して読みました。もしも自分が人間ではなくなり強大な力を持った時、その断絶感と万能感は、自分を“与える神”にも“奪う神”にも錯覚させるんじゃないかと。

 世代論を云うのなら、2人の“アンドロイド的な機能への習熟度”についての方が当てはまりそうです。壱郎さんは58歳ということで劇中が2014年ならざっくり云って1956年生まれ。かたや晧君は17歳と仮定して1997年生まれ。この世代差は、そのまま“自身に備わったアンドロイド的機能をどれだけ使うこなせるか”の差になっているようで興味深いです。
 壱郎さんにとってのSF的事象とはアニメ『鉄腕アトム』(1963年に初放映)くらいなのに対して、晧は物心ついた時には既に実写・アニメ問わず数多のSF作品が溢れています。そうしたSFに対する“慣れ”というか“親しみ”が、双方のアンドロイド的機能の巧拙に出ているように読めました。もしも壱朗がSFフリークなら、もう少し違っていたのかもしれませんが、現状、単純に機能の比較なら晧が優っていると云えるのではないでしょうか。
 そんな考察を許しながらも、この漫画の意図はSF的なバトルとは少し違ったところにありそうです。2人の元人間アンドロイドの対峙から浮かび上がるものは何なのか。そこに注目して、読んでいきたいと思います。

 次巻の刊行予想は1~2巻の間から推測して5か月後。『すごいよ!!マサルさん』(100夜100漫第7夜)に出ててくる田中・スーザン・ふ美子こと校長先生ばりに“ふるふる”している壱郎さんに何だか愛着を覚え始めつつ、次巻を待ちます。

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