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【一会】『少女終末旅行 3』……“終わり”に臨む心構え

      2018/07/21

少女終末旅行 3 (バンチコミックス)

 割と絶望的な未来の世界を舞台に、黒髪黒瞳・しっかり者のちーちゃん(チト)と、金髪碧眼マイペースなユー(ユーリ)の、履帯式牽引車両ケッテンクラートに揺られる、奇妙にゆったりとした旅路を描いた、つくみず氏の『少女終末旅行』。予想よりも少し早く、このほど3巻が刊行されました。さっそく読んだので思ったことを書きます。

 特にどこを目指すというわけでもなく、食料や水や燃料を求めて移動し、何となく多層構造都市の上へ上へと登り続けるチトとユーリ。前巻ではイシイという女性が自作飛行機で飛ぼうとしているのを手伝ったりしましたが、今巻はそのイシイから教えられた食料生産施設に向かうところからのスタートです。

 我々が知っているのとは微妙に似て非なる“イモ”の生産施設でのお料理、黒い板ばかりの不思議な場所、壊れかけた螺旋の通路、登った先の水産物生産施設と、今巻の内容としてはそんな感じですが、通底しているのは“生命とは何か”という哲学的な問いかけだと自分は思いました。希望と絶望について描かれていた感のある前巻までとは少し毛色が変わってきたようにも感じましたが、云ってみれば希望も絶望も生命活動の一環ですから、テーマが変化したというよりも、深化したと云うべきなのかもしれません。
 螺旋のように終わらない繰り返しが生だとすれば、その終わりである死は、確かにある意味では安らぎと云えなくもないでしょう。でも、だからといって全てが無駄だということでもなくて、その“全てには終わりがある”ということを意識して生きよう、というのが、今巻の云わんとしていることではないかと。
 むかし、ある人から「メメント・モリ(memento mori)」というラテン語の言葉を教わりました(『孤独のグルメ』(100夜100漫第63夜)を教えてくれた人と同一人物です)。日本語訳すると「死を思え」というほどの意味になるそうですが、この言葉の解釈も、時代によって変遷してきたと聞きます。古代においては「(いずれ死ぬのだから)今を楽しく」というニュアンスが、キリスト教が興ってからは「(いずれ死ぬのだから)全ては空虚である」というニュアンスが主流だったといいますが、これになぞらえれば今巻は「(いずれ死ぬのだから)全てに優しく」といったところかな、と思います。今巻に限らず、そういう底抜けな優しい空気が、終末を描いたこの漫画の全体に充満しているようにも思えます。

 その他、気になったところを。
 サァビスシーンと云うべきなのかどうか、これまで1巻に1度は2人の入浴シーンがあるのが、この漫画の知られざるルール(?)だと思っています。使わなくなった水産物用の水槽での水浴という意味でならば、今巻もそれが踏襲されている辺りも見どころかもしれません(このルールがこのままどこまで続くか、人知れず注目しようと思います)。
 また、前述のとおり“イモ”生産施設で料理をする2人ですが、その時の「おじいさんとパンを焼いたことがあった」という台詞は重要でしょう。何の説明もなくケッテンクラートで旅をしている2人ですが、かつては「おじいさん」と、恐らくはどこかに定住していたと推察できます。彼女たちの過去についても、いずれ明かされていくのかもしれません。
 自分にとってそれら以上に印象的だったのが、20話の「月光」でした。立ち寄った廃墟で見つけたガラス瓶に入った金色の水“びう”を飲んだ2人の、まぁ要するに酔っ払いエピソードなのですが、ぽかりと昇った満月を遠景に「いつかずーっと高くまで登ってさ…/月に行こうよ」とはしゃぐ様子が楽し気に、けれどもその寄る辺なさが悲しげにも見えて、心に残ります。

 魚と機械をめぐる出会いと別れを経験しつつ、2人の旅は続きます。次巻は秋口になるでしょうか。死から逆算してあと何作漫画が読めるか考えつつ、待ちたいと思います。

 - 一画一会, 随意散漫 , , ,

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